生活と文化の総合センター

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羽賀洋子展−植物の形相 【MSP】

羽賀洋子/植物の形相−HASU6−


「羽賀洋子 ― 色彩の植物相」 谷川渥(たにがわ あつし・美学)

 色彩の宇宙―羽賀洋子の作品に新鮮な驚きを覚えながら、こんな言葉が口をついて出る。赤、青、黄の三原色の、たいていはいずれかひとつが主調をなしながら、それらの色面がのびやかに画面をおおい、あるいは相互に潰透して、おおらかな色彩の宇宙、植物的というほかはない有機的な宇宙が現出する。
 「色彩の植物」とか「色彩の種子」といった表現は画家自身のものだが、注意すべきは、植物といえばすぐに連想される緑色が、その作品群において、かならずしも全面的に排除されているわけではないとはいえ、かなり周到に抑制されていることだうう。ゲーテは、その『色彩論』のなかで「色彩の感覚的精神的作用」を論じて、緑を「現実的満足」を与える色と見ている。シュタイナーによれば、緑は「地上を支配する生命の死せる姿」であるということになるが、いずれにせよ緑は、安定、満足、静止、安らぎの色彩であり、運動、生成、展開にはいささかなじまない。植物という言葉を用いながら画家が基本的に緑色を抑制したのは、賢明な策であり、いやそれ以前に芸術的直観というものであろう。
 明らかなのは、画家は既存の対象を描写してしいるのではないということだ。あるいはまた、ジョージア・オキーフやそのエピコーネンたちのように、花弁を画面いっぱいに拡大しているわけでもない。植物的と形容するほかはない形象に仮託しながら、色彩の揺らぎ、伸び、膨らみ、生動する宇宙を現出させ、それに身を委ねようとしているだけだ。「蓮」のような具体的な形象が登場するにしても、それは現実的な厚みをもたぬ意匠として用いられているにすぎない。
 二十世紀初頭における抽象絵画の生成に神智学的な認識が関係していたらしいことが明らかになってきたが、羽賀洋子の作品が与える印象も、それに近いものがあるような気がする。画家自身がそうした問題にどれほと意識的に関与しているのか私は詳らかにしないが、いずれにせよその色彩への耽溺、その潔さは特筆すへきである。
 私が彼女の作品を前にして最初に想起したのlま、しかし実は二十世紀に登場した抽象絵画ではない。それは、唐突なようだが、十六世紀ドイツの画家マティアス・クリューネブァルトの《イーゼンハイム祭壇画》の第二場面をなす「キリストの復活」である。第一場面で磔刑のキリストの肉体のすきまじい腐乱を描写した画家は、この二場面で光と化して昇天するキリストを表現した。青から赤、赤から黄へと変容する衣服、そしてキリストの背後に拡がる黄、橙、赤、青の光輪。形あるものが形ならざるものへと変容し超越するときに生起するこの色彩現象こそが、羽賀洋子の作品の想起させたものだ。
 もとより色彩のこの一致は偶然にすぎないだろう。安易な比較は無意味だが、少なくともこの点に関するかぎり芸術的直観の同質性をなにがしか感じたとしてもあながち間違いではあるまい。 ともあれ、こちらはあくまでもおおらかな色彩の宇宙、色彩の植物相の世界である。理屈抜きにそれに身を委ねることこそが肝要なのかもしれない。