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2007年3月17日(土)京橋区民館

勉強会


 今回の勉強会は「レディー・フォーペインティング」〈誰がセザンヌを必要としているかU〉―ヴェドゥーダ―中景の論理、アブソープションとシアトリカリティ―を読みました。「脳は絵をどのように理解するか」第八章「神経ネットワーク―標準的表象、記憶、絵の認知」は、都合により中止しました。

 ヴェドゥーダとは、『「典型的には両側に家並みがたっていてその間から遠景がのぞまれるようにする手法をさす。その応用は、奥壁に窓を開けて窓外の風景を見させる方法となったり、枠取りの仕掛けとして『馬の脚の間や、聖セバスチャンの脚の間』を利用してもよい」と指摘されるように、何か遮蔽物の間に奥行きが見えるような一種の仕切りの装置ことを指します。』そして『一見すると一枚の画面に見える平面の中に、複数の対立する別の系列―いまそれぞれのイメージの連合があることを説明したわけですけど―すなわちパラグマティックな連合関係がこの中に組み込まれている。』というものです。このことと前回までの議論やセザンヌのタッチや大小関係の狂いを関連づけようとしています。

 次にやや唐突に(文章のヴェドゥーダのように)アブソープションとシアトリカリティの話が出てきます。マイケル・フリードのアブソープションとシアトリカリティの議論を水平垂直に読み直し、垂直性を視覚性、ファロサントリックなものと解釈し、水平性を書くという算出行為に関わるものマトリックスそのものの場であるとしています。

 この〈セザンヌ誰が必要としているか〉の結論として、「絵画を見る」ことを分析していくと、見えない部分の侵略、干渉を受けている。この干渉が形象(フィギュール)という概念によってとりあえず捉えようとしたものである。それは単なる視覚性には解消できないある種、別の規制というか秩序としてある。セザンヌの兆候は、マトリクスや言語的なパラディグムと関係があるのではないか。空間の統一性どころか複数の場面、相互に対立するような系列が、そこで干渉しあう関数的な場がうみだされるとき、それが奥行きとして知覚される仕組みになっているといえるのではないか、といっています。

 次回、四月十五日日曜日、新川区民館において午後一時より五時まで、の勉強会は、六月に行う予定の、中村英樹さんの勉強会の予習として、『ART FIELD―芸術の宇宙誌』04の―「戦後日本美術の自主的な文脈」中村英樹―をテキストに行います。事前にテキストを読んできてください。

(文:山田宴三)

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