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2006年9月21日(日)京橋プラザ

勉強会


 今回の勉強会はスタン・ブラッケージ、「Mothlight(1963),The Wold Shadow(1972),Thot (年代不詳)」の上映、「脳は絵をどのように理解するか」第5章「文脈と認知」、「レディー・フォーペインティング」〈誰がセザンヌを必要としているかU〉−イメージとしての視覚現象−を読みました。

 「Mothlight(1963)」は、植物や昆虫などをそのままフィルムに貼り付けたような作品、「The Wold Shadow(1972)」は、カメラを一点に固定して風景の様々な様子を撮影し た映像、「Thot (年代不詳)」は、水面の映像と、様々な日常的場面のピントをぼかしたり正攻法のフレーミングを外すことで普段の認識をずらすような画像とが交互に繰り返される映像でした。

 「脳は絵をどのように理解するか」第5章「文脈と認知」では、視野の物理的構成と観察者の経験や知識という文脈が知覚にどの様に影響するかから出発している。前者では、明暗対比を例に前章のマッハの帯を説明していました。後者はトップダウン処理との関係が述べられ様々な例が示されていました。その情報の処理の仕方に「スキーマ」(記憶の組織化とその使用や組み合わせを支配する法則のことを言う。)と呼ばれているものがあり、見えるものの特徴とそれらがどの様な関係にあるかを教えていました。また、そこには個人差やイメージ、カテゴリーに関わることが述べられていて、このイメージについては「誰がセザンヌを必要としているかU」にも関係していると思われるところでもあり興味深いものがありました。その後「視覚的不協和」(自分が期待しているものと実際見えているものの不一致)が美術作品に創造的緊張感を作り出し作品に深いメッセージを発見させるように働くことが述べられていました。

 「誰がセザンヌを必要としているかU」「イメージとしての視覚現象」では、いわば純粋な視覚現象としての美術史が十九世紀から二十世紀初頭に生まれ、イコノロジーはそのようなところから出てくると言っています。その問題を、視覚現象に置き換えて論が進み、「視覚現象は主幹でもなく客体でもなくイメージだということです。」というように結論づけます。このあたりは、「脳は絵をどのように理解するか」第5章「文脈と認知」でトップダウンとボトムアップがイコノロジーと純粋な視覚現象としての美術史対応する形になっていると解釈でき、また「スキーマ」と関係すると思われます。そもそもフーコーの「言葉と物」の−経験的なものと先験的なもの−で述べられていることとリンクするのかもしれません。その後、金田晋さんの「中景の論理」に論が進み、イメージが中景とどの様に関わるかを論じていきます。

 次回の勉強会は、スタン・ブラッケージStars Are Beautiful(1974),Text Of Light(1974)(「存在しているものは全て光だ」―― ドゥン・スコトゥス・エリゲナ 「一粒の砂の中に世界を見ること」―― ウィリアム・ブレイク これらが作品を制作している間、私を駆り立てたものであった。屈折した映画の光の"最初の花火"を見せてくれたジム・デービスに本作を捧げる。―― スタン・ブラッケージ)「脳は絵をどの様に理解するか」第6章「目の動きと美術」、〈誰がセザンヌを必要としているかU〉−絵画の約束論争−からを予定しています。なお、ロザリンド・クラウスの「見る衝撃(インパルス)/見させるパルス」のプリントを配りました。「誰がセザンヌ・・・」のテキストに引用されていて理解に役立つと思われます。ほしい方は次回十月二十一日の勉強会にて申し出てください。

(文:山田宴三)

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