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2006年6月25日(日)新川区民館

勉強会


 始めに「脳は絵をどのように理解するか」第二章、脳と視覚を読みました。問題になったところを順番にあげていくと、「心は脳のはたらきによるものである」という箇所で、はたしてそうだろうか?身体の各部分でもあるのではないか、そもそも心などは存在しないという意見までいろいろでした。つぎに、視覚情報の処理の経路であり処理のされ方が「並列分散処理」と呼ばれる多くの領野の同時活動によってなされているという箇所で、現代のコンピュータとの違いなどに話が及びました。つぎに、同型説(視覚現象は、網膜に写るのと同じように脳の中でもそっくりそのまま表象される)ではなく、多くの幾何学的な形や組み合わせを認識する箇所が視覚野に存在し、視覚情報が視覚野からほかの大脳皮質に処理される。これらの合成結果が貯蔵されている情報に照らし合わされ視覚信号の解釈を生み、意味処理がなされる。ここで特に問題になったのは、この一連の段階を経て処理するその仕方は、誰でも同じである、という箇所でした。この仕方事態に個人差、民族の差、というようなDNAによる違いがあるのではないかというものでした。つぎに、「右脳と左脳の機能差」について、このテキストでは、左半球にシュールな美術作品、右半球に写実的な美術作品とありここを疑問視する意見と擁護する意見がありました。このテキストでは、脳梁という左右の脳の連絡部分が切断された患者の実験で、言葉を述べるための言語機能を左半球、右半球は絵画の情報処理に関与していると書かれているが、例えばダリのような作品はどうかということでした。日本人と欧米人の差であるとかシュールを理解していないとか様々意見が出されたのですが、結局は、これだけの情報では判断できないということに落ち着きました。 

 次に、今回の勉強会はブラッケージの1959年の作品、Cat's Cradle, Wedlock House, AnIntercourse, Window Water Baby Movingの三本を上映しました。三本ともブラッケージの個人的生活を素材にしていました。前回もそうでしたが、ブラッケーはジの影響が現在までも続いていることを再確認させられました。

 その後、「レディー・フォー・ペインティング 誰がセザンヌを必要としているか」の-セザンヌの美術史理解−に移りました。時間が少なかったこともありその前半までしか進むことが出来ませんでした。今回問題になったところは、セザンヌはどのようにプッサンを美術史として理解したのか、また「自然に即してプッサンをやり直す」というセザンヌの言葉からその意味とはどのようなものかということでした。我々日本の美術史認識ではプッサンはそれほど大きな比重を占めているとは言い難い状況にあるなかで見落としている作家あったわけです。

テキストには、ベレンソンとロンギは、セザンヌにヒントを得て、ジョットからピエロ・デッラ・フランチェスカ、ベリーニ以降のべネツィア派からプッサンへという流れを強調したとあり、当時のアカデミックな絵のスタイル、ラファエロ以降フランスのサロンにつながっていく流れとは異なっているとあります。しかし、サロンの主流の中で重要な役割を果たさないにもかかわらずプッサンの絵画はフランスの絵画のフランス性を保証する言説が形成されていったと書かれています。このねじれに対して、プッサンは、自分の絵を言語と同じように組織するための明確なプログラムを持っていて、そのプログラムを受け継ぐ作家とセザンヌのようにプッサンの作った作品そのものの組成のされ方の違いを見抜く力を持っていたといっています。このあたりはプッサンの知識に乏しい我々には難しく具体的な理解が出来ませんでした。

「自然に即してプッサンをやり直す」という言葉にしても実際セザンヌがプッサンのどこを参照したのかということは、メンバーがそれぞれ意見は出すもののここで論じられていることに的を射るような意見は出ませんでした。

つぎの勉強会もまたスタン・ブラッケージの上映会、「レディー・フォーペインティング」・「脳は絵をどのように理解するか」の予定です。「レディー・フォーペインティング」は「誰がセザンヌを必要としているか」セザンヌの美術史理解のマチスを論じている箇所から始めたいと思っています。「脳は絵をどのように理解するのか」は第三章「形の知覚」です。ブラッケージは、Dog Star Man 1961〜64の上映です。ブラッケージの最高傑作と言われている作品です。彼へのインタビューによると、「「Dog Star Man」は「ビック・ダディー」の叙事詩を作る試みでした。世間から隔離された山奥のような、荒々しくむき出しで狂気に満ちた自然環境の中で、家族を養うことの視覚的な叙事詩を作るという・・・。その叙事詩の中にホーマーからバウンドまでのスクリプトと言えるような断片を織り込もうとしています。・・・」 と語っています。

(文:山田宴三)

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