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2006年5月21日(日)京橋プラザ

勉強会


 今回の勉強会は、始めにStan BrakhageのAnticipation of the Night(夜への前ぶれ)1958年を上映しました。彼自身の言葉にこのようなものがあります。「私は間もなく死ぬはずだった。関節に激しい痛みがあり、ひどく体調が悪かった。たぶん神経の、精神的な病気だったのだろうが、それでも痛みは生理的なものだった。死ぬという予感の中、私は最後の作品『夜への前ぶれ』というタイトルが示すものの記録。光は影としてのみ映され、男は作品の最後に首をくくる運命にある。・・・」

 次にレディー・フォー・ペインティング 誰がセザンヌを必要としているかTに入りました。その中の「触覚値」から始め、ほとんどそこで議論は終始しました。特に触覚値、触知性という言葉に引っかかり、その概念の提唱したベレンソンやロベルト・ロンギのテキストを知らないためかに言葉に惑わされた感がありました。このテキストの用語の解説によると、触覚値とは「B・ベレンソンがフィレンツェ派の絵画の特質を示すために始めて使用した言葉。鑑賞者の触感に訴える画法の性質や価値。」であり、触知性は、「全体認識への手がかりとして、部分が知覚に与える確実性」だそうです。

この言葉は触感や質感とは直接関係のない意味らしく、「むしろ視覚とは無数の錯乱的な状態であって、これは到底ひとつの平面という形には還元しきれない。中略 そのときに触覚値とあえてベレンソンがいったことは、けっして実際に手で触ることではなくて、それらの互いに矛盾する無数の視覚が、ひとつの自立した対象として結びつけられる、その統合される可能性だった。」ということです。そして、このようなセザンヌからグリンバーグの視覚性の原理を徹底と平面生という絵画形式の純化の矛盾を改めて論じています。

セザンヌのプッサン理解ということで、プッサンの中景の論理以外にセザンヌは構図を参照したという定説があるようですが、いったいプッサンの構図のどのようなものを参照したのかということが問題になりました。この問題から次回始めることになると思います。

次回からいよいよ始める「脳は絵をどのように理解するか」第2章のコピーを配りました。次回より第2章「脳と視覚」を読み始めていきたいと表います。またStan Brakhageは、Cat's Cradle(1959), Wedlock House, An Intercourse(1959)「Wedlock(婚姻)House」とはつまり、「Wed-lock(結婚で閉じこめる)」。彼らはとらわれているのだ。そしてあたかもそれと矛盾するかのような「Intercourse( 交わり)」。どうしたら 「wedlocked(結婚に閉じこめられる)」と同時に「intercoursing(交わっている)」ということがあり得るのか?(スタン・ブラッケージ), Window Water Baby Moving(1959)(出産立ち会いビ デオの走りか?)を上映する予定です。

(文:山田宴三)

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