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2005年11月20日(日)京橋区民館

勉強会


 今回は木島彰さんをゲストに《デッサンの意味と昨日の変容》というタイトルの基調報告をしていただき、その後、その内容を参加者と交えて論じ合いました。

 議論の流れは大きく二つあったと思います。一つは、今回の論の一つ『創造的創造過程』のモデル{基本モデル(再現的)芸術表現、変貌モデル1=オートマティズム型(主体と対象の一体化)、変貌モデル2−1=フォーマリズム型(自己目的化)その1、変貌モデル2−2=フォーマリズム型(自己目的化)その2}の確認、理解と個々の作家のデッサンあるいは、制作がどのように当てはまるかということ。二つ目は美術教育、特に制作におけるトレーニング方法の可能性についてです。

 トレーニングの可能性では、芸術という明確な目的を持ちえないものに対してすべての人にとって基礎的なトレーニングは必要か否か、どのような形がありうるのかという問題を中心に論じ合いました。必要であるという意見では、最終的な作家としての制作において普遍的に貫かれるものがありうるという考え、必要悪として普遍性は無くても必要であるということになると思います。

 ありえないと考える立場は、具体的にそのようなものは見出せないというものと、積極的に不必要であるという考え方がありました。後者は、人間の遇有性を尊重すべきであるという意見でした。今回の議論では、互いの意見をかみ合わせる接点を見出せなかったと思います。今回の出席者全員が基礎的な美術教育を受けていて、受けたことの無い事例を参照することができなかったこともあると考えられます。また、美術教育に従事してこの参加者が多くその具体例も出されました。

 一つ目の議論では、各モデルを理解するにあたっての主体、対象、作品やそれぞれの構成要素の意味の確認や関係のあり方などが討議されました。参加者それぞれの言葉の捉え方の違いから来る不透明感があったこと、このところ勉強会で扱っているレディー・フォー・ペインティングの視覚の謎からみるとボトムアップで図式化されているところがわかりやすくもあり、困難にしているところでもあるようです。あらゆる場面でトップダウンが働くその作家個人の感性がおのおの違うことから来る不透明感があったと思います。しかし、参加者それぞれの違いや各自の曖昧さを認識することができ、相対化することの助けになったように思えます。

(文:山田宴三)

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