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2005年10月16日(日)新川区民館

勉強会


今回は、レディー フォー ペインティング 誰がセザンヌを必要としているか(T)をテキストにその前半部分と、ベネチア派とセザンヌのスライド上映を行いました。

テキストでは、セザンヌによる絵画観の変貌、切断がどのようなものであったかを今日においてもいまだに十分に理解されていないし、二十世紀美術の展開によって回収されてもいないという問題意識からテキストは論じられていきます。

テキストでは、『セザンヌの絵をひとまず病理的な概念でいう徴候=シンプトゥムとしてみよう』とします。具体的には、異様なプロポーション、主題、細部、描き残しとしての余白、構図があげられています。特にプロポーションについては様々な意見が上げられました。徴候というよりもいわゆる絵画の初心者、特にそのうちの恒常性の強い人の作品にありがちなプロポーション、骨格のゆがみ、ぎこちなさとどこが違うのだろうかと。そう考えるとセザンヌのプロポーションも特別異様とも言い切れない、ありふれた初心者に見出せることではないだろうか。つまり、徴候と恒常性との差異、恒常性では捕らえきれない「セザンヌの徴候」とはどのようなものなのだろうか、ということです。

その異様さは、『セザンヌのもうひとつ厄介なところは、先ほどの手の長い少年のような異様さにしても、カードをする人々に松浦さんが見て取った特質にしても、実は先例が必ず見つかってしまう』ともいっています。しかし、ここで例として上がるポントルモやグレコ、おそらく他の作家にしても、その歪み方で全体が統一されている作家の様式としてあるのに対して、セザンヌの場合は、ある歪みで全体を描ききってひとつの様式とするのではなく、例えば、腕が長いというルールがセザンヌの場合徹底されることなく部分がそれぞれ違った歪みで描かれている。その違いをどう見るのかを問う必要があるのではないか。

ここではアングルが対比されています。プロポーションの狂いにおいては、アングルもセザンヌも同じであるはずなのに、アングルは正統な美術作品として認知され受け容れる、セザンヌは罵倒される。それは、セザンヌを受け容れてしまうと『その時代までつづいてきたとされる美術の公式的なものの見方が崩れてしまうような、一種の恐怖感のようなものの現れの場所として、この手の長さという徴候は、受け止められていると思います。』

ところが現在では、公立図書館、美術の教科書で取り上げられている。しかし、アングルに対する恐怖感としてのセザンヌとしては受け容れられてはいないのではないか。『受け容れる側に大きな態度変更というかパラダイムシフト、ものの見方の変換がなければならないはずです。いままでの美術史のパラダイム、美術作品の見方とセザンヌの絵は決して両立しえないはずだということです。それが語られないのはちょっとおかしなことだとも思います。』といっています。

(文:山田宴三)

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