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2005年8月21日(日)京橋区民館

勉強会


 「絵画の準備を」第三章が今回の勉強会のテーマです。テキストは、カントが下敷きにされていて、抽象表現主義の受容から始まります。そして、その批判として美的判断(倫理)が考察され、その無関心性―無関係性へと論は進められます。

 日本では、70年代の終わりから抽象表現主義が再検証され、それ以来抽象表現主義が美術の正統として語られてきた。しかしそれは、結局修正主義的なものでしかなかった。『修正主義というのはインターナショナルなものに対する批判という形を必ずとる。―中略―インターナショナルと呼ばれるもののもつヘゲモニーに対する批判という構えになるわけですね。そうすると必然的に、その国の政治的な非常にローカルな状況というものを反映することにもなります。―中略―では修正主義が告発する政治的な立場とは何か、それは、乱暴にいってしまえば、画家がどう食うかとか、美術館という制度が経済的なシステムとどう連動しているか、いかに絵画が流通するかという話で、そういうレベルまで落ちていってしまう。』そこには、形式的な展開はなく、相対主義、多元主義をおこす契機にしかならなかった。また、戦時下の文化のように、作品の質に対する問いを回避してしまい、政治的な正しさとして使われるようになっている。

 上のような状況に対し、修正主義の批判的展開として、作品の質を問うこと、つまり、美的判断、「上手い・下手」を倫理の問題にからめて論じられていきます。そこで、道徳と倫理を対比して考えます。『一種共有された基準として外在的に示されうるものが道徳や法だとしたら、倫理というのは、そういう共有された外的な基準によって扱いきれない、一般化できないような問題をどう判断し、統御するかという問題に関わるものだと思う。』これは、このように言い換えられるかもしれません。『道徳という言葉を共同体的規範の意味で使い、倫理という言葉を「自由」という義務にかかわる意味で使います。』(『倫理21 柄谷行人』)美学的な判断「上手い」も外的な基準を持たない倫理的な問題だとして、その非道徳的、非政治的で、不安定でアナーキーな世界に成立することが論じられていきます。そこでその不安定さのなかから何かを決定する行為が要請されるにもかかわらず、曖昧にすることで決断の行為が回避され、豊かさと混同されるケースがあったと警告しています。

 カントによる美学的な判断は、「利害関係」「魂胆」つまり「関心」を前提にしないで、それ自身の性質ゆえに美しいと判断されるものです。『これは美的判断です。その根拠を、カントは「無−関心」性に求めました。それは、道徳的・知的関心を括弧に入れることです。』(『倫理21 』)ところが、ここでは、この括弧入れ、無関心性を無関係性にずらすかたちで論じられます。

 柄谷によるカントの倫理とは、スピノザの決定論『すべてが自然必然的に決定されている。たんに、その因果性があまりに複雑であるために、われわれは自由を想定してしまうにすぎない。』(『倫理21 』)を前提に、『その上で、「自由(主体)はいかに可能か」を問うた。彼はそれを、道徳性(倫理)にもとめます。』(『倫理21』)ということになると思います。その倫理とは、『「自由であれ」という命令、そして、「他者を手段(自然)としてのみならず、同時に目的(自由)として扱え」という命令、これらは「自然」からは出てこない。カントはそれが当為(ゾルレン)であるがゆえに可能である、といいました。』(『倫理21』)。そしてこれを可能にするものは、『自由は、「自由であれ」という命令(義務)においてのみ存在する。それは、いいかえれば、決定論的な因果性を括弧に入れよ、という命令です。』(『倫理21』)ということになると思います。

 このような無関心性(括弧入れ)に対して無関係性とは、『この反対命題(およそ自由というものは存在しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。)は、近代科学の因果性ではなく、スピノザ的な決定論を意味していると見るべきでしょう。』(倫理21))(括弧内筆者)というようなスピノザ的決定論と近代の自然科学の認識の違いからくるのではないかと思います。近代自然科学では、原理的に因果関係はありえません。本来自然法則ですべての因果関係が決定されているはずであるが、複雑すぎて因果関係がわからないということではなく、決定論は否定され、因果関係は原理的にわかりえないということです。

 ということは、もうすでに自然法則に自由が、命令(義務)が組み込まれていること考えてもいいのではないでしょか。『無関係さというのは単に因果的な判断ができない、その断念に終わるわけではない。むしろ、これこそがモダニズムの固有の判断の条件だったのかもしれない。対象との安定した関係が保証されず、まずは根拠なく、対象を判断しなければならないという条件かもしれない。こうした倫理的な判断は、法則化されるような一般的な道徳としては成り立たない。』とあります。無関係性とは、因果関係を問えず、因果関係を括弧に入れることからくる無関心性とは、このような違いなのではないでしょうか。

 本文では、この無関係性からの倫理、美学を論じるとともに、ハプニングや映画、未来の人間を例にその困難さを論じています。特に映画、ロードムービーにはマイケル・フリードのアブソープションの問題が託されています。演劇性とは異なり、無関係ゆえに対象への同一化という、この無関係性に耐えられない事態(アブソープション)におちいることが論じられ、ここでもまた警告が発せられています。

(文:山田宴三)

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