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2005年6月26日(日)京橋プラザ

勉強会


「絵画の準備を!」二章が今回と次回のテーマです。今回は、二章全体の要約、流れを押えることにとどまり次回に内容の検討に入ることにしました。ですから、以下は二章の要約です。

デヴィッド・ワトキンは、二十世紀の建築は言説に支配されてきた、また、その正当化をはかるために三つの公準のようなものがあったといっている。ひとつは社会的なプログラム、それは、社会の見えない要請、無意識的なシステムとして社会が強いるものであり、建築は社会のシステムをただ実現している、であるから建築の必然性も社会のプログラムに還元される。二番目は科学的真、三番目に神学というものがある。ワトキンは、このようなイデオロギー的な要請があったとしても、それらはすべてオブセッションにすぎないことをあばいていった。

その中で一番強いのは、社会的なプログラムであり、特に二十世紀になってくると科学進化論、歴史主義になる。そこで問題になってくるものは、時代との対応による判断基準しかなくなってしまうことである。作品形態を言語的な文脈のなかにどう位置づけて語るかであり、言説が従っている秩序の問題でしかない。作品の形態というものが、一度こういう言説の場に置き換えられないと承認されなくなったということである。

また、近代的な枠組みでは、真・善・美を明確に区別し、それぞれに分離した思考体系が形成される。それら各領域の内部で自らの合法化の話題が形成される。しかし、美的な領域では、それ自体では正当化の作業が遂行できず、それ以外の領域に正当化の口実ないし言説を捜し求めることになる。何が形態を決定するのか、何が形態の選択を正当化するのかという問いが頻繁に登場することになる。

この二つの問題に関わるものとして、トロツキーの思考、「形態が形態を決定する」=形態の決定を何ものによっても代行させないという意思の表明という興味深い構図がある。しかし、なんらかの表象を認識するということは、形態が何かを代行するものというかたちでしのびこんでこざるをえない(たしかに社会的な時代要請にこたえうるプログラムのような短絡は否定しているけれども)。あるいは、「形態が形態を決定する」ことは、典型的な科学モデルとも考えられる。であるからそこに人間の判断の入る余地はなく、作り手の意思は姿を変えざるを得ない。その作品の自立性にたいする弁護にはなるが、真・善のモデルとしてしかなく、美の領域として組織される言説とはなりえない。

遠近法というものは、それによってどんな場所からも描けることが可能になり、ローカルな視点を開放して多数の主観的な視点が生まれた。なおかつ遠近法が形式として成り立つには、それらの主観的な視点が交換可能でなければならない。そこに象徴形式としての遠近法が要請された。しかし、遠近法は、無条件にその時代の「社会的なプログラム」として捉えられてしまい、そのほかにもありえたはずの恣意的でしかない形式がその時代精神を体現したシンボルとして捉えられてしまう。

十三世紀以降のルネサンス文化の中に現実そのものを全て演劇としてみるモデルが普及し始める。それは、現実を何々の再演としてみる。それによって現実は発見されるようになった。演劇では、現前しえないものを想起による再演で遡行的に捉えることである。ルネサンスでは、まったく一致しない二つのものの間に同一性が見出されるとき、それが意味として認識される。想起ということは、この類似性を起こす場に関わっている。一致しない複数の場所や時への関心がこのころ芽生えた。

描写された場面で起こっている出来事と、それに付帯する感情を、見ている観客がまさに自分もその場面に参加してその一部になっていくように感じさせるためにダ・ヴィンチは、空間の一致、場所の一致、場面の一致という三一致の法則いう。その法則によって、観客の今見ているという行為とその絵の中で行われている行為の一致がはかられる。こういう発想は、絵を見るという行為が何かを思い起こすとおなじで、遡行的にしか成り立たないという事実を意識しないと出てこない。絵を描いている時間と事後的に観客が見ている時間も含めて絵を見る時間はもう一致しえない、常に遅れているんだという意識がないとこのモデルは出てこない。ところがその遅れとしての絵画という問題に直面したとき、それを隠蔽しようとした。その操作のひとつとしてジャンル論もあった。絵は詩のごとく、詩は、絵のごとくという伝統に対して、一瞬のもとに空間的な全体として提示される芸術と、時間の軸線上で継起的に展開していく芸術とがジャンル的に区別される。このジャンル論は、グリンバーグ=フリードの思考の基盤にまで連綿と繋がっていく。ルネサンスのころは、単に過去と現在の相違というのではなく、複数のまったく異なる系列のものを重ね合わせるということがゲームのように繰り広げられていた。ところが、美の領域を守ろうと、美の自律性をいうとき、単体としての作品モデルがある限り、真、善、美、三つのカテゴリーの適用は、作品を単一なシニファンとして、真あるいは、善の言説に回収することになってしまう。

瞬間性はフィクションであり、瞬間の知覚や瞬間の相に置き換えられていて純粋な瞬間を見ることは出来ない。知覚のアレンジメント、行動の違いによって知覚は分割されている。絵の中でもまったく違った視覚ゲームが同時に行われている。多くは、さまざまな技法で絵の中に階層を作り矛盾が起きないようにする。ベネチア派は、絵の中のヒエラルキーをリテラルにはつけないで、見る人によって事後的に知覚の中でその分断が起こるようにしている。

それが、近代絵画では、画面の物質的な露出の層と像の層という二つの層の言語ゲームに切り詰められてしまう。矛盾するプランの分離=文節というものをあわせてワン・シークエンスとすると、そのシークエンスの数を減らしていこうとする傾向は、二十世紀になって特に顕在化する。それは、モダニズムの要請として、現在性を絵画において現前させたいという形而上学があるからである。トートロジカルに画面全体と内容が一致していると。しかし、それらは、言説を地としてしか図として出現しえないし、言説の領域を極端に肥大化させる効果としてある。芸術の自立性、純化といった神話の抱え込まざるをえないパラドックスがここにある。

(文:山田宴三)

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