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2005年5月15日(日)京橋プラザ

勉強会


 今回のテキストは、「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」Andy Warhol 林道朗著。勉強会は、テキストに沿って進められようとしたが、このテキストのウォーホルの解釈に疑問を呈する意見が出た。つまり、「ウォーホルの作品や言動を深読みしすぎることでウォーホルの仕掛けた罠にはまってしまうことになりかねないのではないか?」ということであった。ドライに、事実に則してウォーホルを見ないと見誤ってしまうという意見だった。例えば、このテキストからではないが、ウォーホルの作品は資本主義を反復し、その写し鏡になることで資本主義批判になっているということがあげられた。そのような解釈を避けることがウォーホルを理解するうえで重要であり、このテキストは、その危険を冒しているのではないかということであった。

そこで、今回の議論の進み方は、微妙な揺れ動き方をすることになる。それでもやはり、ウォーホルに資本主義あるいは、近代の空虚や人間疎外を見てしまう方向とそれに対してこのテキスト外の具体的な事実とされているもの(ややこしいのは、この事実事態が神話化される要素となりうる)との間を揺れ動くことになった。

ウォーホルは、デビュー当時からモチーフ、アイデアなどを他人から買ったり、譲り受けたりしていた。また、貧乏でただ金持ちになりたかった、マチスのように有名になりたかった。そのようなことから、晩年にいたるまでの、事実ともいえないような神話化された言動にいたるまでのテキスト外の事実があげられた。その事実が示すように作品は、絵画批判としての「内容」はなく、かれにとって内容よりも発表の仕方が問題であり、差異の反復の効果による意味の無意味化がおこる。そこに、歴史(抽象表現主義)を空洞化する作用を見て取れてしまうが、しかし、ここでウォーホルを、「何かを表現する」つまり資本主義批判、歴史批判として解釈するのではなく、「欲望する機械」として、まさにファクトリーと化し社会と連結することで後期資本主義社会の欲望をすくい上げ生産する装置と化すとみなすことが出来るだろう。

そこには「ウォーホルの情念」ということさえも欲望させる。彼の出自は、貧しい下層階級のスロバキア移民で「人間の生き方とは、神のために生きる」ということへの反発があった。テキストに連作の問題を扱った箇所がある。要約すれば、ウォーホルの連作と二十世紀一般の連作とが対比されているのだが、後者のそれは、内的な契機に根拠を持ち、未知への到達点を持つ。その到達点とは、「完成」、「本質」、「普遍」である。この到達点は、他者的、外在的であり神という存在に似ている。神は,外部を持たないという意味で内在的である。内的な契機から出発した連作は、外在的な他者、神のようなものに到達するや否や外部を持たないという条件から来る内在性から更なる到達点に向かう欲望を喚起するという循環構造を形成する。(これは、資本主義的構造と一致する)

それに対して、ウォーホルの連作は、これまでの議論にもあったように内側には根拠が無く外在的である。その外在性は、二十世紀一般の未知への到達点の外在性とは違い絶対的な起源や終着点をもたないものである。結果、二十世紀のそれが持っていた方向性、運動性を停止させて「喪失の不安」にさせる。前者が内発的な差異の生産だとすれば、それは運動を喪失した差異、空虚としての差異といっていい。

未知の到達点への運動、つまり資本主義的差異の生産の運動を停止させ、ただ空虚としての差異を反復するウォーホルの作品にわれわれは、「ウォーホルの情念」、超越的な否定性、反美術を見てしまいがちだが、しかしウォーホルは、商品ディスプレイを導入することで大量生産・消費システムに由来する即物的で寒々とした、丸裸の表面的空虚にしている。

(文:山田宴三)

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