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2005年4月17日(日)京橋区民館

勉強会


今回は、「パッション=受苦」から始まる。そしてこの部分に今回の勉強会の半分以上の時間を費やすことになった。

 地と図の問題、身体というシステムや環境がこのテキストでは抜けているのではないか、視覚の遅れ、不自然を受け入れることとしてのパッションに論のないようは、進められた。受苦性までの論の流れを整理するそのことが受苦性の理解に繋がると考えられるので、このテキストで論じられている十九世紀的なものと二十世紀的なものの違いから始めてみたい。

 欲望は、絶えず対象を求め組織してしまう、視覚においては、必ず図としての何ものかを見よう(欲望する)とする。結果、絵画でいえば、欲望(図)を組織する中心としてのイメージが組織され、表象を見ることと描くこという行為の共起性、同じ行為としてみなされ透明な結合関係をそなえていると信じられてきた。

それに対して、ここでいう十九世紀的なものとは、対象との関係は、確定していない、かつ確定しうる可能性があるという状態、この宙吊り状態をつくりだす。理念の断絶の装置、象徴界に還元されない宙吊り状態、欲望を拡散させたり遅延させる仕掛けとしての絵画のことである。それによって、共通感覚から断絶し、純粋知覚を得ようとする。

『絵のなかに見出す理解された像と、実際そこで知覚しているものがずれてしまう、まさに像と画布上の物質的有り様のずれが起こる。概念的なイメージと純粋な知覚のずれ、あるいは対象と知覚のずれ、・・・中略・・・クールベの話しにも関わるけど、観客がそこに見た視覚像と物質的な存在としての作品の中にあらためて位置づけようとしてもそれはどこにもない、絵画の物体的様相にその視覚像を戻すことが出来ない。見たものがどこに描いてあるのかいえなくなってしまう状態におかれる。色彩の総体あるいは体系として、それがとりあえず定位されるだけで、重要なのは決して一般化されえない視覚というものが印象派によって与えられたということですね。・・・中略・・・絵画の特異性はそこにしか成立するところはない。つまり、想像的な次元でしか絵画は成立しないんだ・・・』そういった装置としての印象派が上げられる。

対して,二十世紀的なものとは、メディアが発達するにつれて、絵画のメディアという側面から作品が受容(欲望の交換)される社会が自明視される。そこでは、欲望、象徴界に還元されない想像的なもの、純粋視覚が忘れられていく。結果、欲望の対象を固定化し、象徴的に秩序づけ、純粋視覚をア・プリオリに前提にしてしまった状況がうまれた。もはや、徒のような作品の形式でも制度化されてしまったのである。かつ、社会と絵画の関係を無理やり統合しようとしてきた。つまり、歴史化、社会化したのである。

 十九世紀と二十世紀の差異は、どのようなものだろうか。『地』と『図』の関係に受苦性の問題をみてみたい。二十世紀的なものは、印象派などの純粋知覚、視覚の宙吊り状態というものを、ア・プリオリに『地』と『図』という定式化に還元してしまった。そこに受苦性はない。受苦性(パッション)とは恣意的に与えられたものである。ア・プリオリ=自然性とは区別されなければならない。二十世紀的なものは、ア・プリオリな基底面上で『地』と『図』が不明確な決定しがたい構成を意図的に作りだす。それに対して十九世紀的なものとは、『地』と『図』の反転が起こるかどうかも分からず、そのようなものが芸術という制度に回収されえないものであったはずである。そこには、主体の受動性を能動的に作り出すもう一つ別の主体が必要であった。この受動性こそ自然=ア・プリオリとは区別される受苦性である。この主体の分離による受動性がレアル、純粋視覚を組織させる。

 受動性ということでは、鶴見俊輔の『限界芸術論』がある。鶴見俊輔は、宮沢賢治の「デクノボー」や「白象」に一番可の能性を見出している。その構造は、結果に至らないプロセスの芸術である。そのプロセスの芸術は、二十世紀以降の美術の歴史が、社会的、目的論的な位置づけに対する戦略、つまり作品の形式として組織する仮設点としてその自立性を支えてきた。例えば、宮沢賢治は、「デクノボー」的なものを見出し、代弁するという現在ではキュレータの役割を果たす。(「デクノボー」は、その「無防備」ゆえに覗き見しつつも保護したり宙吊りの欲望を喚起する。)あるいはまた宮沢賢治は、表現者の限界としての個性を探求させ、それを素材として扱い、媒介者、芸術家として実際の個としての表現者や生産者を素材そのものにするかのように組織する。

 他方、観客に開かれた芸術、抽象表現主義の作品の多様性は、作品そのものではなく、それを見るさまざまな観客たちの持つ視点の多数性に依存してしまい、観客に全ての決定の責任を転嫁する。そこでは、作家の責任が免除される。あるいは、絵画それ自体の自発性というモデルで作者を消してしまう。それは「デクノボー」と同じこと、つまり作品の形式を組織する仮説点機能した部分があったのである。

(文:山田宴三)

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