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2005年3月20日(日)京橋区民館

勉強会


テキスト「READY FOR PAINTING 絵画の準備を!」から、「純粋視覚の不可能性________ミニマル・アートとレディメイド」を選び、主にその前半部分を解読していく形で進められました。ほぼ文章の流れに沿って話し合われました。以下は、その内容です。

ミニマリズムには、日本には欠如しているといわれる、製作過程から自然に発展してきたものではない意図的に組織された運動、経験の持続からの切断がある。つまり「先行する理念」による経験の持続から切断されたものをつくり出す。

この先行性の兆候の顕在化として、「レディメイド」がある。レディメイドとは一般的に芸術社会学的な議論(型の問題、何が芸術か)という問題になるけれども、像/物体のある特殊な関係の提示こそもんだいにすべきである。それは、近代絵画を成立させた条件として、像/物体の分裂があり、この条件のもとでミニマル・アートを考える。このことを出発点として議論は、すすめられる。

一般に、経験というものが何によって保障されているかといえば、与えられたもの、無条件に社会化され客観性が保障されたものと考えられている。そこでレディメイドといういい方には二重の意味が読み取れる。それは、視覚のレディメイドの批判、つまり、自然主義的な絵画、芸術はそこで得られた視覚は自然ではなく、レディメイドの社会化されたものでしかありえない。次に、網膜が受動的に当てにしている対象をあらかじめ社会化されたオブジェとして置き換えてしまう。そのことによって、視覚=網膜と対象を結び付けていた自明なつながりを切断し、どこにも属さない経験を確保しようとする作戦がレディメイドにはある。

同じようにミニマル・アートにも作品の対象性を、あからさまにレディメイドの、あらかじめ規定されたものにしてしまうことよって、借りの対象に対する経験は、借りの物でないものにするというやり方があった。そこには、純粋知覚の断念があり、なおかつ、それを仮に成り立たせるにはどういうかたちがありうるのかという問題設定があった。

その問題をクールベのレアリスムに引継ぐ。クールベの「レアル」とは、「現実主義者」の「現実」にも近く、絵画の現実性、社会的な現実をも含めた「レアル」の実現が含まれている。クールベの切断には、あらかじめ先行されてしまっている理念、レディメイドされた理念の切断の原理である。対象の現象的な形象とそのレアルさ、対象の再現とその現実性を区別した。かつ、技術(歴史性)として客観的に写実的に再現すればするほど、レアルから離れ技術が前面化する。その技術に還元できないレアルさをどう獲得するかという問題意識をクールベは持っていた。それは、無骨で、余剰で、物質的のものであり、そこから、無防備性に繋がり、無防備であるがゆえに覗くという視線を誘惑せざるを得なくなる。

この無防備性は、イノセント・アイという、概念に侵されていない純粋視覚としてある。純粋視覚の不可能性からいかに視覚の純粋性を構成するかという手続きをひつようとする。つまり純然たる無防備な対象というのはあらかじめ存在しているのではなく、対象を、いわば無防備性の効果のもとに再構成するという手続きとして出てくる。

具体的な作品として、マネの《バルコニー》、《鉄道》などは、通常の絵画であればその絵で見られるべき誰もが共有すべき対象があるにもかかわらず、そうはなっていない。偶然の視線に近い。そこに描かれている対象の無防備性によって画家の動機(欲望)は、社会化(レディメイド化)されることはない。絵に描かれた光景が帰属するはずの、それを統御しているはずの主体がはずされてしまっている。このように、対象を拡散させ欲望というものを拡散させてしまうような装置、いわば理念の断絶の装置というものは、こういうかたちで仕組まれていた。

この対象との確定されていない関係、なおかつ確定しうる可能性があるという状態、そういった宙つり状態、歴史の宙吊り状態を、20世紀、1917年以降のモダニズムは、歴史を形成するする原理へとかわってしまった。社会的な道徳、科学などと美的な領域を無理に統合しようと働き始めた。しかし、物体に還元されない視覚像というものが印象派によってうまれ、それこそが絵画の特性であるということ。つまり、絵画は想像的な次元でしか成立しない、象徴的な秩序に戻してしまうとすぐさま物体に還元され商品化されてしまうのである。

そこで、社会的、歴史的な欲望からの断絶が必要になる。もともと欲望も視覚も恣意的なものであり、それは受動的なものパッション(受苦)である。ここで重要なものは、受動性と先験性、あるいは自然性を区別すことであり、受動性を作り出すには、自己の外から自分に働きかける、主体の受動性をなおかつ能動的に作り出すもうひとつの別の主体が必要とされる。この受動性(受苦)からのレアルな経験をいかに組織していかなければないかが現在の課題である。

以下は、次回につづく
(文:山田宴三)

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