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芝章文氏(画家)インタビュー/聞き手 柳下朋子

――芝さんは川口市にお住まいですが、地元に川口現代美術館という美術館がで きたことをどうお感じになっていましたか?

■地元に美術館ができるというのは嬉しいことだな、と思いましたよ。画廊さんと の関係で作品を購入していただけることになったということや、以前から(学芸員の) 森田さんもよく知っていたという、つながりもあったということで、今後この地域で より良い美術館になってくれればいいなぁと思ったんですけれど、悲しいことに5年 くらいで休館、ということになったわけで…。これはやっぱり今の日本の経済的な現 状のひとつの犠牲なんだろうなと思いましたね。そのことも含みますがそんな中で、 美術館やギャラリーの置かれている状況を憂うだけじゃなくて、その危機意識を乗り 越えて行くための具体的な方法を模索していかなければならないだろう、と。そこで、 二年程前になりますが数人で”MASC―(Metro Art Subst Conference)”「都市芸術 実際会議」という「緩やかな連携」をモットーとした勉強会を立ち上げて、つまり、 往々にして美術は都市における活動が主をしめているわけでしょう、そういう中で美 術家だけに限らず美術愛好家や美術・芸術に関わる様々な分野の人たちと共に美術や 芸術に関する理解を更に深めていくための積極的な活動を立ち上げたわけです。どのような環境ができれば我々にとって好ましいのかといった、要するにひとつの 美術・芸術におけるインフラ作りのモデルケースとして展開していけないだろうかっ てことなんです。美術館やギャラリーを取り巻く環境がより困難なものになっていっ てるとか、独立行政法人化されていく公立美術館や公立大学に山積された問題、また 美術界や美術教育の現場においても解決しがたい様々な問題に直面していくなかで、 我々に一体何ができるんだろうかということを、本気で考えていかないとこの先、生 き残っていけないんじゃないかというような危機意識が皆の中にあって、そういった 思いがその活動を突き動かしているということなんです。そのひとつの方法として、 『FACE』という雑誌を今年9月に発刊したんですが、これは20世紀の多くの雑誌に 見られた「マニフェスト」という形ではなくて、「美術を擁護する」という意味では 宣言のようではありますけれど、やっぱりさっき言ったようにこの生きがたい現実を 如何にして乗り越えていくかという問題を共に考え、実践していける現場を創出して いこうということなんです。会議によって出された様々な問題をひとりひとりの問題 として受けとめ、考え、具体的な方法を引き出し、実践していく。またその活動をつ ぶさに記録していくということが重要だと考えたんですね。

――普通に絵を描いているだけではやはり、そういった状況を変えられないと思われ たのでしょうか?

■そりゃあ、僕個人の問題としては難しいと思いますよね。何れにしてもすごく時 間のかかることだと思うんですね。で、自分の作品だけで変えられるとか変えられな いとかということは、あまり具体的ではない。それはそれぞれの個人の領域の問題で あって、でも今の社会状況は個人ではそう簡単には変えられないでしょうね。自分自 身の状況もどんどん変わっていくということもありますからね。でも、例えばこういった会議をやっていくなかで、わかったことがあって、世の中 を変えるとかそんな大それたことじゃなくて、まず自分自身を変えていくことから始 めることなんだって思いましたね。人ってひとりじゃ生きられないから、そんな交歓 の中で得られるものもたくさんあるんですね。現代のような生きがたい環境を積極的 に変えていく必要があるんじゃないかと思ったわけです。そういうものを僕自身が欲 していたということもあったし、多くの人がそんな場を望んでいるんじゃないかと考 えたんです。そういう基盤というものができればいいなということで、時間はかかる だろうけれどひとつのモデルケースとして、できないだろうかと…。それはやっぱり 絵を描き続けてていく為の環境でもあるわけで、そういうものがあることによって制 作していく励みにもなるんじゃないかと思うんですよ。制作するということはすごく 孤独な作業なんだけど、いまそこにある困難な状況を少しでも改善していきながらよ り良い環境を整えていく必要がある。つまり、僕等の場合って多くは作品だけでは普 通に飯食っていけないから、他に仕事をやらなきゃならないわけですね。例えば学校 で教えるとか夜アルバイトするとか。「絵を描く」っていう仕事をやりながら「飯を 食う」為のもうひとつの仕事もやらなければならない。そういった意味では普通の人 の二倍働いているわけですよね。そんな経済的な現状や、また作品を作ることから生 じる悩みもたくさんあるわけで、そういうものを解決していくための環境作りってい うのがすごく必要だったということもあって。美術館やギャラリーの今の深刻な状況 は同時に我々作家にとっても、あるいは美術に関わる人たちにとっても困難な状況に 変わりはないわけで、そういった現状を改善していく方策というものを、このような 集まりを組織することで個々にとってのなにがしかのヒントを見出していけるんじゃ ないか、ということがあるわけです。それは未来像としてですけどね。こういう活動 はやったからといって2年や3年ですぐになんとかなるということではなくて、答え がすぐに出るわけではないんだけれど、年に2回刊行していこうとしている『FACE』 というこの雑誌も、やっぱり5年、10年と何10冊か出ていくあいだにそれらによっ て影響をうける人も出てくるだろうし、それに対しての何らかの反応が生まれてくる だろうという、それが面白いと思うんですよね。ひとつの環境を作り出すということ が…。そういう中からより良い環境が整ってくれればいいなって、僕らは期待してい るんですけどね。続けるってことはなかなか難しいですけど、でも前向きに考えてい かないと、経済はこれからどんどん悪くなっていくだろうし、ホントに生きづらい時 代が続くんだろうと思いますからね。だけど一歩一歩とにかく生きていかなきゃなら ないわけで、やっぱり支えになるような何かを自分たちで作っていかなきゃならない でしょうね。作家は個人個人の問題に帰れば自分自身の問題として社会との位置関係をそれなり に存続していけるんだろうけれど、その中でも今までより、もう一歩、ちょっと困難 なものを引き受けて自分に枷ながらやっていくことが大事だと僕は思うんですね。つ まり、こういう集まりに参加していくということはそれまでの自分に一歩積極的な困 難さを枷るわけで、今の状況より、少ししんどいことを引き受けるということなんだ けど、それをやっていかないと前向きになっていかないんじゃないかと…。で、たぶ ん多くの人たちは「より一歩」ってどうしたらいいのかわからないと思うんですね。 そんな余裕も無いと思うし、だけど具体的なかたちを打ち出していくということはい ずれにしてもその一歩を踏み出すことなんですね。それがいいものに結びつくかどう かというと、それは僕にもわからないけれど、信じなきゃやれないですよね。その一 歩を踏み出すかどうかによって、未来は僕らが今置かれている状況よりも少し良くなっ てるんじゃないのかな、っていう期待を持ってるんですね。

――つらいなかでも、やはり芝さんにとって「美術」はやっていかなくてはならない ものですか?

■そうですね。生活というか、高校の頃、美術家になろうと思って今も続いている ということは僕にとってはものすごく必要なものだったんだろうと思いますね。まぁ、 もちろん、これを仕事にしてやってきたからこそ、それだけでは食っていけないって こともよくわかってきたんだけれど、それでやめようとは思わなかったわけだから。 確かに幾度かそういう思いもよぎったけれど、今の年になってくると、もうやめられ ないですからね、前を見つめて進むしかないっていうのがあります。ただ、世の中、 本当にどうしようもなくなったときにはわからないな。家族もいるし、有無も言わさ ず食えない状況になったら絵どころじゃないと思うかもしれないですからね。でもやっ ぱり僕はそうなっても空に絵を描くかもしれないな…。そいういう思いっていうのは、 それによって僕自身が存在しているのかもしれないし…。だけど、理由はどうあれ過 去に美術をやっていて困難に打ち勝てずに死んじゃった人はいっぱいいるわけで、自 殺しちゃった人もたくさんいる。まぁ、そういう人たちとは違うかもしれないけど、 これからもいろんな困難はやってくるわけだし。だから「絵を描き続ける」と一言かっ こよく言ったって、本当にその現場に立ってみなければわからないですよね。例えば 僕なんかと一緒に卒業した人たちも、40、50になってくると本当に5,6人しか 残って活動していないしね。我慢強いだけかもしれないんだけれど、やっぱり美術や 芸術というものは人間にとってすごく必要なものであって、僕はこれといった宗教は 持っていないけれどそれに代わるようなものとして、あるいは科学や哲学とならんで 芸術は重要なものだと思いますね。

――そういった中で、日本では一般の人にとってその美術に理解が少ないという状況 はどうしてそうなったと思いますか?

■それは、まず明治の頃に日本が近代化していかなきゃならないということがあっ て西洋の文化を接木したっていうのがありますよね。だけどそれまでの江戸時代の日 本はすごく豊かだったと言われているでしょう。明治期にその豊かなものをどう位置 づけていくかが大変難しかったんだと思いますね。西洋と東洋とに引き裂かれた日本、 と言われるように急速な西洋化の渦のなかで日本人は自前の文化と異国の文化に翻弄 された。その後いくつかの戦争を乗り越えて再び豊かになってはきたけれど、過去の 豊かさのあり方をうまく受け継いではいないんですね。たとえば美術教育の現場を見 ても美術大学に入学するために予備校というものを生み出して、受験のための美術教 育が蔓延している。昔のような徒弟制がいいとは言わないけれど、現代の本末転倒的 な制度の歪みは西洋化の積み重ねのなかから生じた悪癖といえるかも知れない。日本 にはたくさんの優れた工芸はあったけれど、西洋の美術が入ってきたときにはじめ てARTが「美術」と訳されたように、それまでの日本には「美術」というものは無かっ たんですね。自分達の根拠にはない、またなりえない西洋の歴史をそのまま受け入れ ることなど到底できなかったわけで、多くのことを学習しなければならなかった。そ の学習の仕方、方法がはっきりしないまま今に繋がっているように思うんですね。日 本人が日常的に美術に触れるような慣習を作ってこなかったとも言えるし、よくよく 考えてみると工芸品は自分の手にとって愛でる鑑賞の仕方をするでしょ。多くは実用 の中から生まれてきたんですね。壁にかけて鑑賞するというような公的な習慣がもと もとなかったわけですね。西洋人にとっては当然のようにギリシャやローマというの が根拠となり、出自でもあるわけだけれど、それは日本人の根拠ではないわけだから、 尤も日本人の根拠を考えると朝鮮や中国などアジアの文化にすでにさらされているわ けで、その辺の混乱というものも抱えたままで同時に現代があるわけでしょ。いずれ にしてもそれらを克服していかなきゃならないと思うんですけどね。

――もう抱え込んでしまっている

■そう、だからといって「日本人だけで生きなさい」ってわけにもいかないわけだ し、一方では”和風”っていうのを大事に守ってきたわけでしょ、外では”洋風”で、 家庭内では”和風”だった。そういう文化はそれはそれで面白いと思うんだけどね。 でも柄谷行人という哲学の人が(東洋)と(西洋)という識別ではなく「双系制のあ いまいさ」という言い方をしていて、つまり父系制社会と母系制社会に対して日本は 双系制であるという見方もできるとある。西洋と東洋とに引き裂かれたと考えないで 少し違う視点でとらえてみることもできる。東洋、西洋のどちらでもないものに向か うべきじゃないかなとも思うんですよね。実際日本はどちらでもないものに向かいつ つあるとも言えるでしょ。だからそういった意識の中で一般の人たちも日本というか、 自分という独自なものを考えていけるようになるのが進化だと思うんですよね。なか なかそれは難しいことではあるけれど…。近代って近代国家という共同体の誕生から成立してきたわけでしょ、その共同体の 中で専門家が生まれてくる。専門家は一般からどんどん遊離していったわけじゃない ですか、現代美術なんかもそのひとつであって、美術の中にはとてもわかりやすい美 術というのもあるし、そうじゃないものもある、そういった中で全てが現代美術化す るなんてことはあり得ないわけで。わかるものもわからないものも同時にあるんだけ れど、「わかっていく」ってことは結構ある。「面白い」と感じる領域が増えていく わけで。だから、「美術のこういう部分は知っていて、こういう部分は知らない」っ ていうのはちょっと悲しくなるよね。多くを知っていけばいいわけなのだから。その 中で自分が好きか嫌いかとか、もっと違った価値というものに出会えばいいと思うん ですけどね。最近みんな、「好き嫌い」でしかものを言わない傾向があるでしょ。そ れだけじゃやっぱり進化しない。

――そんな中で美術館という施設の存在は、日本ではどういった役割を果たしてきた と思われますか?

■うーん、だから、ヨーロッパでは17、8世紀ぐらいにサロンというものができ て、日本で美術館という形式のものが明治10年頃に初めてできるわけでその後、日 本美術院とか文展といった団体展が生まれてくるわけですよね。そういう中で公的な 場としての機能は紆余曲折あって現代まで続いてきたんだろうけれど、美術家側から 言わせてもらうと「美術館に作品が入ってひとあがり」みたいなことが昔からあった と思いますね。でもそれは現代ではほとんど”墓場”のように機能しているという言 い方もできなくはないと思いますね。もちろん現場で働いている人たちは美術館の今 後の新しいあり方というものを様々に模索しているんだろうけれど、やっぱりああいっ た公的なものを存続させていくためには莫大な予算がどうしても懸かってくるわけで 。”オフギャラリー”や”オフミュージアム”という言い方もあったように、つまり そういった囲われた現場ではないところで美術を提示するという、今やそのあり方も 百花繚乱で何でもありみたいになってきてはいるけれど「美術館」や「美術」という 言葉の意味があまり重要ではないというふうに考える人たちもいますよね。ただ、もう一つは”ホワイトキューブ”という白く囲まれた仮設の空間を前提とし て美術作品を作るということにもどこか矛盾があるように思いますね。例えば、僕な んかバブル期にはレストランなんかに作品をよく入れたんだけど、食が進むように赤 系の色を注文されたり、そういった仕事では制約をたくさん受けるんですが、一方作 品が実用的なかたちで鑑賞されるわけで。絵画がどういう場所に設置されるのが理想 的なあり方なのか、作品によっても違ってくるのだろうけれど。でも美術館が本当に 絵画が住まう、行き着く場所なのか、と考えたときにそれはわからないと思うんです ね。つまり、絵画や他の美術が本来的に機能する場はどこかっていったときに必ずし も美術館や画廊ではないと僕は思うんですね。展示するための仮設の場所であるとい うことに、あまりにも慣れ過ぎたというか、疑わずに信じすぎているということもあ るんだろうなって気がしますね。すでに美術館や画廊のあり方が問われて久しい話で すけどね。

――展覧会というもので新しい美術の見方の提案ということが学芸員サイドなどには あると思いますが、作家側から見たらそれは作品とは切り離されたことなんでしょう か。

■いや、美術館に展示されるということはひとつは憧れの対象ではあったと思いま すよね。やっぱり近美のコレクションに入れてもらいたいとか飾られたいとかは 一方 ではあるだろうし、見せ方においても様々な方法を模索していますよね。要するに作 家っていろんな事を考えるから…。ただ、美術館というのは公的な場であると同時に すごく大きな場所でもあって、それに見合うような大きさの作品を要求されるという 事が結構歴史的な問題としてある。アメリカの抽象表現主義の大型化していった作品 と歩を合わせるように、日本の作家たちも自分の住んでいる場所のスケールを越えて しまうような作品を作って、アップアップしているわけでしょ、現実としては。

――それは、「大きい作品がすごい」ということですか?

■スケ−ルもたしかに作品の一要素ではありますよね。公的な場所というのは多目 的公会堂のように大きな空間を擁していて、すごく大きなものも要求する。作家にも よりますけれど、その場のスケールに見合ったものを考えるとどうしても大きな作品 になってくるじゃないですか。こういうのはどこからきたの?っていうのがあるわけ ですけどね。例えば銀座のギャラリーってどこもとても小さいけれど、ああいうとこ ろで美術館に入るような作品を掛けるって大変なことなんですよね。僕もこのあいだ 個展をやったけど300号を掛けられる画廊なんて日本にはほとんど無いわけで。あっ ても一度剥がして張り直さなければ入口から入らない。矛盾しているけれど、バブル 期には画廊はこぞってでかい作品を作らせて、美術館に売っていたわけでしょ。今は 経済が冷えて以前程そういう話しはなくなってきているけれど、そういったスケール の問題なんかもどこから来たのか、ということもある。もちろん、これは現代絵画や 立体作品においての話で、そうじゃないものもあるけれどね…。

――では最後に、芝さんの考える理想の作品の展示場所とは?

■自分でつくるしかないんでしょうね。それができないうちはいろんな場所に対応 してやっていくしかないわけで、いろんな場面においてね。でもそれはやはり理想の 展示場所ではないでしょうね。一番良いのはパーマネントの自分のための美術館でしょ うね。自分が見るための、もちろん多くの人に見てもらえるような展示スペースでしょ うね…。

2002年10月16日(作家アトリエにて)

       

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