go to main page

ニューヨーク/坂井眞理子

 2001年12月5日ガラガラに空いている飛行機でニューヨークに行く。 WTCビルの残骸がまだ残っているうちに現場を見ておきたかった。自分の目で確かめておかないと長いこと慣れ親しんだWTCビルがニューヨークの風景から消えてしまったという事がどうしても信じられない。
 「アメリカへの旅行者はトランクの中をチェックさせていただきます。」成田で係員がトランクの中を調べた。40年前のニューヨークの飛行場がまだケネディ国際空港ではなく、ニューヨーク国際空港と呼ばれていた時に、トランクの中を丁寧に調べられて以来のことである。この時、私のトランクに入っていた海苔を引っ張り出して「これは何だね」と問うた係官を「なんて馬鹿なアメリカ男だこと、こんなおいしいものを知らぬか。」と心の中で笑ったことが思い出される。

 ケネディ空港から乗ったタクシーの運転手に、ブルックリン橋を渡ってくれるようにと頼む。1883年につくられたこの橋は特別に美しい。そのうえ、この橋からみるWTCビルを中心としたロアー・マンハッタンの摩天楼こそがニューヨークなのである。またニューヨークに来たとワクワクする一瞬だ。
 ところがタクシーの運転手は「橋をおりた辺の道路は通行止めが多くてだめだ。WTCの残骸の撤去作業のためだよ。」と言う。そこで私の乗った車はクイーンズ・ミッドタウン・トンネルを通って36丁目に出ることになった。その途中に広い共同墓地がある。そこからニューヨークの摩天楼がずらりと見渡せる。中央にエンパイア・ステートビル、右手にクライスラー・ビル、そして左手の端に抜きん出て高いWTCの二本のビルが見えるはずなのだ。この二本の高いビルがあったこそのニューヨークの都市の風景である。それがなくなっている。

 40年前ニューヨークに着いて喜びに胸をふくらませて見た時のニューヨークの風景にもどっただけじゃないかと自分にいいきかせてみる。1962年の時点ではエンパイア・ステートビルがニューヨークの都市の風景の象徴だった。しかし1973年WTCビルが出来てからはこの二本の高いビルは完全にエンパイア・ステートビルと取って変わった。WTCビルはニューヨークの都市の風景そのものとなった。
 余談だが、私の知るところの写真家は9月21日の9時にちょうど車で、このクイーンズの共同墓地のとこを通りかかっていてWTCビルから煙が出ているのを見た。すぐラジオをかけて大事件を知りそこから写真を何枚も撮った。その写真展を開きたいとヨーローッパでひっぱりだこなのだ言っていた。

 ニューヨーク市にこの高層建築が可能だったのはマンハッタン島が古生代の固い岩盤でできているからと言われる。 このマンハッタン島こそが1624年にオランダ人が現住のインディアンから、わずか24ドル相当の布などの物品と交換して、手に入れたものなのだ。

 その後オランダ人はイギリスに敗れ、マンハッタン島はイギリスの当時の王の弟であったジェームズ・ヨーク公(後のジェームス二世)にちなんでニューヨークと名づけられた。それからニューヨークは、イギリス統治下のアメリカ植民地の首都として都市計画が進められた。そのあと独立戦争の勝利によって1785年にアメリカ合衆国の最初の首都となった。1825年に五大湖の一つエリー湖とハドソン川を結ぶエリー運河が開通してからは工業が飛躍的に発展した。この工業の発展は1861年に起こった南北戦争の時の北軍の武器庫として活躍し、その軍需景気によって19世紀後半の経済の発展を築いたのである。
 そしてまた第二次世界大戦でアメリカは戦勝国となりニューヨークの経済は一層高くなる。
 経済が活発になると同時に文化政策に力を入れる秀れた政治家が出るという幸運に恵まれて、ニューヨークはその後、世界的な文花の中心となっていくのである。その政治家とは1953年に就任したワーグナー市長で、音楽の殿堂リンカーン・センターを新設し、既設のメトロポリタン美術館や現代美術館などに力をいれ、カーネギー・ホールも世界的な活躍をする。

 演劇や芸能といった大衆娯楽も、世界各国から流入する移民が持ち込んだ多様な文化に影響されて活発になる。黒人やプエルトリコ人は西洋にない音楽をつくり出す。
多種多様な人種のるつぼが織りなす文化の中から新しい芸術が生まれ、人種のるつぼが生み出すエネルギーが面白い都市をつくる。ニューヨークはそういう都市である。

 その世界に君臨する面白いニューヨークが2001年9月11日に誰もが考えてもみなかった悪夢に襲われたのである。このWTCの大惨事でニューヨークは変わるだろうか。

 いやニューヨークは戦争の度に経済がよくなっていくという歴史を持っているようだから、今度のアフガニスタンへの一方的な戦争でもいい結果が出るのだろうか。

 今のニューヨークは、強いジュリアーニ市長のお蔭で平穏な都市に変ったということだけれど、ほんの数年前まで危険な都市といわれた。失業者、ホームレス、人種差別、犯罪、貧困、暴力などがニューヨークを複雑な都市にしていた。近代産業社会の退廃が都市を覆っていた。そんな中だからこそニューヨークの芸術は面白かった。自由にあふれていた。

 ジュリアーニ市長の住む市長舎は私が宿がわりに留めてもらう友人の家のあるチェンバリー通りにある。ジュリアーニ市長がそこに住むようになって市長舎の周りはぐるりとフェンスで囲まれて、自由に出入り出来ていた庭も外からみるだけになってしまった。以前は市長舎の庭を横切って地下鉄の駅に行けていたのにと皆で文句を言っている。市長舎の建物も長いこと工事をしている。
ジュリアーニ市長がニューヨークの街をクリーンにしたお蔭でホームレスは遠くに追われたという。田舎で彼等は生きていけるのか。

 せっかく、悪名高い危険な都市ニューヨークがクリーンになった途端に、ニューヨークに前代未聞の大事件が起こってしまった。お蔭でジュリアーニ市長は東叛西走の活躍をして人気市長となった。そして今、新しい市長が誕生した。

       

ページのトップへ戻る戻るメインページに戻る